加東が新人会計士向けのセミナーを開催して大盛況だった日の一週間後、志村は事務所で監査調書の整理をしていた。今日は久しぶりに一日事務所での作業だった。
フリーアドレスのフロアのため早速外の景色が見える特等席をゲットし、辺りを見回す。
すると、木村が志村の3つ隣の席に座っているのに気づいた。

志村「木村さん、おはよう!今日は事務勤?」
木村「お、志村ちゃんじゃん。志村ちゃんの事務勤って珍しいな。掛け持ちの現場増えて最近事務所来れてなかったでしょ?」
志村「うん。久しぶりに来たよ。たまには調書整理に明け暮れる日があってもいいよね。良かったらあとでランチ行こう?」
木村「もちろん!じゃあ後でな。午前中お互い頑張ろう。」

志村は自席に戻った。調書のアーカイブスケジュールを確認して、作業完了までの大体の時間の目途を決める。志村はこういった作業が大好きだった。

志村 佑子(しむら ゆうこ)。入社6年目、主にサービス業関係の企業を中心に監査している。規模の大きい会社ではチームリーダーとして後輩をまとめ、中小規模の会社では主査業務を行っている。

2時間ほど調書が揃っているか確認し、志村は時計に目をやった。そろそろ木村と約束していた時間だ。木村の方を見ると、まさにランチへ出かけようと立ち上がっていた。志村は慌ててランチバックに財布とスマホを入れて木村の方へ向かった。

木村「事務勤と言えば、ここのイタリアンだよな。やっぱ窯焼きピザがうまいわ。」
志村「このピザ本当に美味しいよね!私も大好き。事務所来たなって感じ。」

クリスピータイプのピザは食べやすく、それでいて具がたっぷりのっていて、事務所内で知らない人はいないほどの人気店だ。

木村「そういえば、加東のセミナー見に行ったんでしょ?すごい評判良かったらしいな。」
志村「そうなの!調書の書き方がメインだったんだけど、終わった後の加東さん、質疑応答でみんなに取り囲まれてて。」
木村「それはすごいな。あいつは人望あるからさ、このまま事務所でパートナーまで行けるタイプだと思うよ。」
志村「そうだよね。・・・・でもさ、私そんな加東さんの姿見て、居場所があってちょっとうらやましいなって思っちゃった。」

志村が少し声のトーンを落としたので、木村は驚いて志村を見つめる。
木村「志村ちゃん?なんかあったの?」

志村は木村と目線を合わせて、何かを確かめるように言った。

志村「私ね、事務所辞めようと思ってるんだ。」
木村「え、マジで?急だね。というか、どうしたの?仕事つらいから?」
志村「うーん、仕事きついっていうのもあるけれど、最近監査の仕事してて思うんだ。できあがった数字についてあれこれ言うよりも、私はその過程を見てみたいなぁって。加東さんのセミナー聞いて、自分の好きなことを自信もってやれているのっていいなって。私もそうなりたいって気持ちが強くなったのよね。」
木村「そっか。数字を作る過程か。確かに、俺もそれは興味あるな。」
志村「うん。そう思ったときに、ふっと思い浮かんだのは、事業会社の経理やってみようかなって。」

木村は目を丸くした。

木村「経理!?」
志村「そんな驚かなくても。だって、よく考えてみてよ。会計士って経理の実務はほとんどしたことないのに監査している人って多いじゃない?だから私はあえて経理やってみたいなって思って。」
木村「・・・なんか、志村ちゃんらしいね。確かに、経理できる会計士って意外と少ない気がするな。」

志村はにこりと笑った。

志村「でしょ!ということで、今夜、エージェントと会う約束なの。」
木村「お、早速だね。良い会社に巡り合えるといいな。陰ながら応援してるよ。」

それから1か月。志村は東証1部上場の大手サービス業に内定が決まり、経理マネジャーとして働き始めることになった。一か月の予定がある程度安定して組めるようになったことは志村にとって歓迎すべきポイントになった。また、部下のコーチングや監査対応など、監査法人出身であることを生かすことができる点も魅力であった。

木村「志村ちゃん、ついに経理か・・・。」

志村の送別会の帰り、意気揚々と去っていった同期の後ろ姿を目の当たりにした木村は、一人つぶやいた。
木村「俺は・・・何を目指したいんだ・・・?」

この3日後、木村にとって運命のメールが届くことを、もちろんこのときの木村には知る由もなかった。