三船はぼそりと言って、SOX文書の1つである業務記述書の草案をクライアントへ送信した。辺りを見回すと、20人は余裕で入るほどの大きな会議室にはもう誰もいなかった。
外にいるはずのコオロギの鳴き声が室内まで響いてくる。
三船太朗(みふね たろう)。入社6年目、監査部門に籍を置きながら、アドバイザリー部門のクロスアサイン制度を利用して、現在は上場準備会社の内部統制アドバイザリー業務に没頭している。監査を丸5年経験して、漠然とではあるが監査以外の業務へ興味がわいたというのがこの業務に携わることになった動機だった。

三船「お疲れさまでした。失礼いたします。」
会議室を施錠し、ビルの警備員に鍵を預ける。
時計に目をやると、深夜2時を回るところだった。
三船はビルを出て目の前に止まっているタクシーに乗り込んだ。

運転手「今日もお疲れさん。兄ちゃん、もう5日連続じゃないか?毎日大変だな。」
三船「ハハハ・・・運転手さん、今日もありがとうございます。」

この運転手は三船がタクシーを使うことを予想して、最近は毎日この場所で待機しているため、すっかり馴染みになった。

運転手「こんな遅くまで働いていても、朝は普通に出勤だろう?」
三船「そうですね。クライアントへお邪魔する時間が決まっていますから・・」
運転手「それは大変だな。偉い!お客さんもさぞかし喜んでいるんじゃないか?」

そうだと嬉しいです、と言おうとして、三船は少しためらった。
いつも、自分が接しているクライアントの担当者は成果物をとても褒めてくれている。意見をもらうようなことはあまりない。それは本当にクライアントの役に立っていると言えるのか。クライアントの課題は、本当は他にあるのではないか。

三船「本当に喜んでくれているかどうか、となるとあまり自信がないですね。」

三船は聞き上手の運転手に、つい本心を漏らした。

運転手「そうなのか?これだけ働いているんだ、感謝はしてくれているだろう。けど、自信がないってことは、どこか兄ちゃんの心に引っ掛かりがあるんだな?」

ほどなくして、三船の自宅マンションの前に着いた。
三船は運転手にお礼を言って代金を支払い、タクシーを降りた。

三船「心の引っ掛かりか・・・。」

三船は自宅の鍵を開け中に入った。ワンルームタイプのため目の前にベッドがある。
ベッドを目にした三船は、急に眠気に襲われた。それまで考えていたことなんてどうでもよくなり、スーツ姿のまま倒れるようにして横たわった。

千秋「え?三船くん、コンサル会社に転職するの?」

千秋が目を丸くして三船を見た。
あれから一か月後。
久々の事務所で、三船は千秋と一緒に研修を受講していた。

三船「うん。迷ったけど、監査法人でアドバイザリー業務をするより、コンサルタントとしてしっかりと会社に向き合ってみる方が、今まで見えてこなかった会計以外のことも含めた経営上の問題点が見えてくるかも知れないと思ったんだ。」
千秋「なるほど、会計にとらわれずに幅広く業務をやりたいってことね。それも会計士のキャリアの選択肢と言えるわね。ところで、どうやってそのコンサル会社を見つけたの?」

三船はPCでgoogle検索し、「会計士.job」というサイトを千秋に見せた。

三船「このサイトに登録して、会計士人材を探しているコンサル会社を紹介してもらったんだよ。職務経歴も簡単に記入するだけで登録できるし、面談の時間も考慮してもらえて仕事が忙しくても使いやすかったよ。俺は帰りのタクシーの中でいつもメールの返事を書いてた。」

千秋「三船くん、いいサイト見つけたね!最近、転職している人多くなってきているし、あたしも転職考えようかな。」
三船「おいおい、あまり早まるなよ。周りが転職してるからって安易に転職を考えない方がいいと思う。俺が言うのもなんだけど、結構今後の生活が変わると思うし。」

転職を決めた三船に反対されると思っていなかったのか、千秋はちょっと拗ねたような表情を見せた直後、意を決したように言った。

千秋「あたし、実はあと4か月で赤ちゃんが産まれるの。だからこのまま監査法人で仕事を続けるかどうか考えたくて。三船くんが使ったサイト、あたしも見せてもらうね。・・あ、このこと、他の人にはまだ内緒ね!」

まさかのカミングアウトに、三船はただぽかんと千秋を見つめるしかなかった。