稲葉「ほんと付き合わせてすまない、宮口くん。こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。」

時刻は午前3時を回ろうとしていた。
ここは、とあるクライアントの会議室。室内には宮口と稲葉の二人だけだった。

宮口「気にするなよ。この前は俺の仕事手伝ってくれたし、持ちつ持たれつだろ、こういうのって。成果物の提出が明日に早まるなんて、クライアントも無茶なこと言うよな。」
稲葉「我々も決して立場は強くないからね。本当にありがとう。」

軽く稲葉と視線を合わせて、宮口は再び目の前の仕事に集中し始めた。
宮口孝(みやぐち たかし)。入社6年目、入社当初よりアドバイザリー部門に所属している。通常は監査部門から経験を積んでいくため、監査法人のキャリアとしては比較的珍しいケースだ。だが、宮口は自ら志望してこのキャリアを選んだ。監査には毛頭、興味がなく、彼にとって会計士という資格は単なる通過点に過ぎなかった。

1時間後、二人はなんとか成果物をまとめあげ、明日の締め切りに間に合う見込みとなった。

稲葉「ここまでできれば大丈夫。今日はもう帰ろう。本当に助かったよ。」
宮口「そうだな。少しは役に立てて良かった。・・・なぁ、稲葉。俺たち、こんな仕事の仕方でいいのかな。クライアントに言われるがまま毎日こうして深夜まで仕事してさ。正直クライアントの顔色伺いながらやってるだけなんじゃないのかなってさ。」

稲葉は少し考える間があったように見えたが、すぐに口を開いた。

稲葉「宮口くんの言いたいことは分かるよ。僕だって、いつまでもこんなことばかりやっているわけにはいかないなって思ってる。」
宮口「もっとさ、クライアントと対等な立場で、会社を全体的に見れるようなコンサルティング・サービスができれば、俺たちもこんなにストレス溜めたりすることもなくなるんじゃないか?」
稲葉「・・・宮口くん、ひょっとして、何か考えてる?」

宮口は何かを決意できたかのようなすっきりとした表情を見せた。

宮口「おーい、稲葉!」

2か月後、スーツ姿の宮口は、とある居酒屋で稲葉と久々に再会した。

稲葉「宮口くん、なんだかすごく久しぶりに感じるね。前までこの近くのクライアントで毎日会っていたからかな。よくここで酒飲んで帰っていたよね。」
宮口「そうだな。2か月しか経っていないのに懐かしいな。」
稲葉「それにしても、急に事務所辞めてびっくりしたよ。宮口くんのことだから何か思いついたんだろうって思ったんだけど、あれから何があったの?」

宮口は黙って稲葉に自分の名刺を差し出した。稲葉は思わず受け取る。

稲葉「・・・〇△株式会社って最近上場準備の噂があるベンチャー企業じゃないか!しかも、社外取締役CFO!?」
宮口「実はさ、あの日の少し前に千秋に会ったんだけど、「会計士.job」っていうサイトを紹介してもらって。そこの紹介でやってみることにした。独立会計士という立場で、しかも社外役員としてなら経営陣とも対等に渡り合えると思って。前から悩んでいたんだけど、この前のことがきっかけで決心したよ。」
稲葉「本当に驚いたよ。そもそも社外役員ってこれまでそんなに身近に感じてこなかったしさ。」
宮口「それは俺も同じ。でも、最近はガバナンスの強化も一層求められる時代だし、上場準備会社ならなおさらだろ?会計処理の整備も内部統制の整備も必要になる。そこに公認会計士のニーズがある。」
稲葉「なるほどね。意外とニーズがあるんだね。宮口くん、おめでとう!これから〇△社の将来も、宮口くんの将来も楽しみだよ。今後も会えるときは情報交換しようね。」
宮口「独立会計士という立場だから、俺も仕事はこれだけにしようとは思ってないし、もっと自己研鑽もしたいからこちらこそ、よろしくな!」

宮口と稲葉は固く握手を交わした。
その後、二人は同期の話などで2時間ほど盛り上がり、それぞれの帰路へとついた。

稲葉「あの人に電話してみるかな・・」
稲葉は、帰り道でスマホを取り出し、通話履歴を見つめた。